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巷の不思議

 ←巷の謎 →感覚の眼はタゴールから
おばあちゃんも、ひいばあちゃんも

佛教心に篤いタイプだったため

私にとって在家の寺は楽しい場所であった。



お灯明の向こうに鎮座まします本堂の大きな仏像も、

衣に着替えた僧侶が静々と衣連れの音をたてながら

歩いてくる渡り廊下も、本堂をぐるりと取り囲む回廊も、

四季の木々に彩られたこじんまりとした日本庭園も

法事のあと招かれる座敷も、そこで見せてもらう、

掛け軸に大きく描かれた丸い円までも

普通の家とは明らかに作りも雰囲気もちがう

寺のなかは、何回いっても見飽きない場所であった。


そして何よりも、礼服に身を包んだ父やおばあちゃん、

親戚のおじさんなどの物腰が、礼儀正しくにこやかなところが、

あるいは和尚さまとの間で時折、かわされる笑顔や

静けさに満ちているあたりに響きわたる笑い声までが

明らかにいつもとは違っており、その雰囲気は

まるで、池に降り注ぐ柔らかい春の日差しのようであり

私達子供達までをも、うれしくなるような

安心感で包み込んでくれているかのようであった。


どんなにうれしくても時は過ぎ行く。

流れる雲のごとく、行く川の流れのごとく

時は過ぎ行く。

昔も今も、私達は決して同じところにはとどまれない。


寺の住職に挨拶をすませると大人たちは大またで

さっさと石段の下に消えていったその時、

本堂の階段では、おいとまごいもそこそこに、大人に遅れじと

急いで靴を履く子らの傍らで一陣の風がかけぬけていく。



裏山では時折、ゆっさゆっさと風が木々の葉をゆらすので

、鳥のさえずりが近くも遠くも聴こえていた。


この情景はいったい、私が幾つのときのものであろう。

あのとき、笑顔の真ん中にいたような叔父さんも

お住職から珍しい掛け軸をみせてもらい

得意満面の笑みを浮かべていた父も、

庭の池に姿を映して微笑んでいた和服の祖母も

今はもうこの世には存在しない。皆、この寺で法要されている。


法要のとき、お数珠を手に持ち本堂の座布団に座り

耳にするお経と辺りに充満するお線香の香りにむせながら

ぼんやりと仏殿をながめていると、ゆらめくお灯明の向こうに、

自分をこの世に送り出してくれたであろう無数のご先祖様が

確かにいてくれたことがひしひしと忍ばれて

雨がほこりを洗い流すように、日常の垢にまみれた自分が

けな気にも感じられると同時に、この世にぽつんと私一人だけが

置き去りにされているような心細さにさえ

不意に見舞われもするのでしょうか、気がつけば私の頬の上に

不覚にもいつしか涙がこぼれていきます。

そして気がつくと手と手を合わしています。


こんな私が、近頃、驚くことを一つあげるとしたら

「あなたの家は何宗ですか?」という質問に対して

「知らない」と応える人がいるということなのです。

葬式をあげていなければ宗派を知らないかもしれないので

「ではまだ身内で誰も死んでいない、ということですか?」

と聞き返したところかえってきた言葉は

「いいえ」であり、

自分が喪主になった葬式の経験はあるのに

佛教の宗派を知らない、という事実に私は

二度驚いてしまいました。


「本家でなければ、法事に出るのは

 親父くらいだからね。

 子供のころ一度も寺に行ったことのない奴って

 案外いるんじゃないのかな・・・」


なるほど。よくよく考えてみれば

私が物心ついたときから

お寺さんによく足を運べたのも

菩提寺の近くに一族が暮らしていたからであり

代々のご先祖が奉られている寺に集うことの

大前提は、日々の暮らしのなかに菩提寺がある、ということ。



菩提寺だけが田舎にあり、自分達は都会に居を構える現代にあっては

この単純な前提が形骸化し、足元から崩れつつあるということ。


そもそも佛教徒である私達は、何のために葬式や法事のとき、

自分の宗派の僧侶にお金を包んで、お経をあげてもらうのか

はたまた菩提寺とは、なんのために大切なのであろうか

そして何よりも檀信徒として寺に聞きたいことは、

佛教とはなにか?ということであり

佛様の教えでは、佛教徒である私達は

死んだらどこに行くとされているのか、

あの世だとしたら、そこはどういうところなのか、

極楽と地獄があるらしいが

どうすれば地獄ではなく極楽に成仏できるとされているのか

という究極のテーマに対する明快な答えを

お釈迦様に使えるものとして、各宗派のお坊さんが

真正面から説けるかどうかという姿勢が

在来の寺の一つ一つに問われているということ。

あの世は無いかもしれないけれど、あるかもしれない。



暗い夜道を49日間かけて、仏さんはたった一人で歩いていきます。

それが冥土です。冥土は暗いんです。そこをたった一人で歩いていくんです。

心細いです。そんな仏さんにとって、この世で遺族が灯してくれる

お線香の灯りだけが、暗闇で唯一、足元を照らしてくれる灯りなんです。

だから49日間だけでも毎日、お仏壇にお線香を灯してあげてください。



かつて父が死んだとき、我が菩提寺の高僧はこのように説いてくださいました。


ところが数年前に参列した友人のお母さんの葬式では

仏様は、死んだ瞬間、もう阿弥陀様のもとに帰られました。

阿弥陀様は真っ白い光そのものです。そこはお浄土です。

仏様はそこに帰られました、という教えが説かれました。


49日間、暗闇を旅しなくても、一瞬にして光輝くお浄土に

阿弥陀様のもとに帰れるのであれば、私もそうしたい、と思いました。


平安時代、人々がこぞって、

何をさておいても、一生に一度は

京都から各地から熊野詣でに出かけたのも

死出の後は極楽浄土に帰りたい一心からだといわれています。



あれから数百年の時がたちましたが

現代人の私達は、平安時代の人々を笑うことができるのでしょうか?


医学は進歩し、この世に長くとどまっていることは可能になったとはいえ

どんなにがんばっても、人間は大木のように何百年年も生きられません。

現代医学や科学が解決しつつあるのは寿命を延ばす技術であり

「死」そのものを解決したわけではないのですから

いづれ私も死んでいくという事実を見つめつつ

正直な気持ちを語ります。

笑われるかも知れませんが、私は今こそ、

帰れるのであれば極楽浄土に帰りたいと願っています。














































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