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カルマの棘

カルマの棘

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「祖母」

この子が哀れで、可愛そうで・・・」と
薄暗い部屋の中で、祖母が泣いている。
子供の日に届けられた柏餅を片手にもったまま
着物の袖で涙を拭っている。



土間に立つ客人は気の毒そうに祖母をながめ、
それから部屋の真ん中にいる私を見た。


どうしようもない暗がりが部屋を覆っていた。
それは昼間の暗がりであり
夕暮れが訪れるまで
じっと耐えるしかない時間であり
小学4年生の私は
路地裏の奥にあった 祖母の家の軒先で
一つだけ外へと切り取られたガラス窓から
ただ、ぼんやりと空をながめていた。

6つに区切られた木枠の窓ガラスには
一番上の二枚にだけ普通のガラス板が
下の4枚にはスリガラスの板がはめこまれていた。

私は窓を開けたり閉めたりしながら
ひたすら外の景色をながめていた。
祖母が声をかけても
ただ黙って立ったり座ったりしながら
向かいの家の二階の屋根ごしに見える
せまい空をながめて
時間がすぎていくのを耐えていた。

あれほど眺めていたはずなのに
空の色は思い出せず、目に浮かぶのは
灰色のすりガラスであり
すりガラスの、見えそうで見えない感じが
そのときの心境を物語ってくれているのだろうか。



「お前は体の病気じゃなくて、心の病気だから
しばらく学校を休みなさい」
といった父の言葉が今も聞こえてくる。




あのとき「心」も病気になることを
私は初めて知ったのだった。そして
そのときから、「心」の病との
長い付き合いが始まったのであった。


そして、私がかかってしまったらしい
「心」の病などというものは同級生には
全く理解されることはなかった。



「天敵」


私自身、「心」の病がどういうものなのか
さっぱり理解できなかった。体は元気なのに
学校には行かなくてよい私の遊び相手は
祖母の家の隣に住む4歳児と2歳児だった。


彼らの父は外国船の船乗りで
日頃は母子三人で暮らしており
私にはとても隣の家は居心地がよかった。


けれども運命とは皮肉なもので
その家のおばさんの甥っ子が
私と同じクラスの男子だっただけではなくて
彼は優等生であり、
誰もが一目をおく存在であると同時に
私はものすごく彼に嫌われていた。



「なんで元気なのに学校に来ないんだ」

「体は元気でも、私は心が病気だから
 学校には行けない」

「うそつき!絶対そんなのずる休みだ!」

「ちがう!ずる休みじゃない」


路地裏で
激しく言い争う二人だったが
教室では、私たちは
同じ一学期の学級委員であり
彼は私の前の席に座っており
一度だけ国語のテストの時
私は彼の答えを盗み見たことがあり
それ以来、彼は私につらく当たるのだった。

   
小学4年生の私は一人っ子であり
隣町からの転校生だった。
父は中学で音楽の教師をしていた。
母は建設関係の会社で事務員をしていた。
母も私も祖母も
ピアノを弾く父が自慢だった。
私たちは、しばらくは同居していたが
いつのまにか祖母は別居し
繁華街の路地裏に家を借り、
小さな和裁教室を開いていた。
この父方の祖母は私が学級委員に
選ばれると、とても喜んでくれた。




理由は定かではないけれども
転校するまでの一年ちょっと
私は越境通学を強いられていた。
それはあたかも敵陣の中にあって
敵に囲まれて暮らす
人質のような気分を私に与えていた。


それが晴れて
近所の子供達と
同じ学区の子供になり
転校早々、学級委員に選ばれる、
という快挙を
なしとげたにも拘らず
両親が別居さわぎをお越し
不安で学校にも行けないなんて
同級生の誰が理解できただろう。



「学級崩壊」

記憶は前後する。

そして不運は重なる。



時を同じくして、
追い打ちをかけるかのように
担任の先生が入院し
学級は大パニックを起こしていた。



転校早々、学級委員になった私が
「うるさい男子の口には
セロテープを貼ります!」というと
「貼って欲しい」という男子が何人かいて
Hくんは「やめろ」と言ったかもしれないけれども
私は本当に、彼らの口にセローテープを貼ってしまった。
「唇が紫色になっているよ」という声が上がり、
ようやくセロテープははがされたものの
私は、女子からも嫌われてしまったし
教室を平常に戻すべく派遣されてきた
臨時教員の女の先生も
両親の不和に悩む生徒である私に対しては
全く理解を示さず、女の先生には
父が手紙を出して欠席の了承を得たにもかかわらず
家族としてやり直す最後の賭けとして
父が提案した家族旅行から帰ってきた私は
クラス中から「旅行に出かけて、ずる休みをした」
と責められ、昼休みのほとんどを、一人でぽつんと過ごしていた。

いつもまにか
父母の離婚騒ぎがおさまり
私は犬を飼っても良いことになり
雑種のよく吠える犬だったけれども
しばらくはうれしくて
どこに行くにもその子犬を連れて
出かけていたら、あるとき、
H君の家に集まり、入院している先生に
鶴を折ることになり
私は、少し遅れて愛犬と一緒に
H君の家にたどり着いたところ
先に来ていた連中が上にあげてくれず
「どうして」って聞くと、H君は
「お前は臭いからだ」といい
お母さんまでが「あんまり臭いとね」といい
仲良しだと思っていた女の子からは
「私の弟をいじめる」と言われ
記憶はそこで途切れてしまうのだけれども
しばらくは散々な日々を送っていた・・・はず。


「捨てる神と拾う神」


救世主は現れるものである。

長い昼休みに
他のクラス、他の学年の人が、
わざわざ遊びにきてくれる様になったのである。
クラスの男子は相変わらず私のことを
「性格が悪い」と言ったりもしたけれど
公園に行けば、誰かと仲良くなって
暗くなるまで遊んでいた。
女の子がいなければ男の子と、
同じ学年の子がいなければ
上か下の子と遊んでいた。
自分と同じように、
一人で遊びに来ている子供と
仲良くなって遊んでいた。
いつも一緒に遊ぶ仲間はいなくても、
誰か遊び相手はいた。


親友や幼馴染、
と呼べる人たちの記憶はないけれど
お祭りにも、盆踊りにも、
私は一人で出かけていった。
行けば楽しく、何とかなるものである。


教室でも同じことが言えた。
クラスの中心グループではなく
苛められて泣く男子とか
一人でぽつんとしている女子を
励ますようにした。

それは自分が
のけ者にされたみたいで辛かった時
上級生の男子や他のクラスの子が
遊びに来てくれて
私自身が、とても、うれしかったから。
優等生のH君が何を言っても、
どんなに軽蔑的な眼差しを
送ってきたとしても
私はもう平気だった。


とはいえ、火種がなかったわけではない。

父と母の離婚騒動は
夏が来る前には
丸くはおさまってはいたものの
母対祖母、ないし、母対父の妹の間には
以前にもまして
どうしようもない溝が生じていた。

お盆になっても
父と母が祖母の家を訪ねることはなく
私だけが祖母と叔母に連れられて
浜辺までご先祖様の食事とお飾りを
流しに行った。満ち潮になれば
あたり一面の砂浜は潮に覆われ
ご先祖様は再び、死の国へと
波にゆられて帰っていくのだ。

夫を早くに亡くした祖母は
お盆が来るとうれしそうだった。
お盆の三日間はあの世のご先祖様が
この世に帰ってくるとされているからだ。
仏壇の周りにはほおずきがぶら下がり
丸いお飾りがかざられ、小さな膳と
ぶどうがお供えされていた。


私は祖母のお手伝いをして
小さな仏具にご飯を盛り付けたり
お盆のお膳にお供えをしたり
仏壇に灯明を点し、お線香を上げて、
チーンと鐘をならすことが
大好きだった。

とはいえ子供の日のお祝いに頂いた
柏餅を食べることもせず
夕暮れ近くまで
ただ黙って窓辺から外の景色を
ながめている小4の孫の姿は
祖母には、どう見えていたのだろうか。



「体操服の下に隠された大人への敵意」

その年の夏休みも終わる頃
私は、口には出さなかったけれども
家の中であれ外であれ
母を悪く言われては傷つき
祖母や叔母が悪く言われても
傷つくようになっていった。



子供だけじゃなくて、世間には
自分が好きになれない大人がいることも
自分を好きにならない大人がいることも
皮膚感覚でかぎ分けられるようになっていった。


先生のなかにも、敵がいた。

一度、こんなことがあった。

家族で旅行に出かけた時のことだ。
何とか離婚をさけたい父が
母と私を旅行に連れて行くことになったのだが
「心」の病気以来、私は学校を休みたくなかった。
「ずる休み」だといわれることが嫌だったのだ。
次の朝、起きると父は私に手紙を渡した。
学校を休む理由として、
我が家の家庭の事情を書いておいたから
先生に渡せというので、私は言われたとおり先生に
手紙を渡した。その先生は担任の先生が入院している間だけ
学級をまかされた臨時の先生で、女の人だった。



何はともあれ、父が書いてくれた手紙のおかげで
私は安心して旅行に出かけはしたものの
旅先でも父と母は口論になり
楽しいはずの旅行でもケンカしてしまうくらい
仲の悪い父と母を確認する旅になってしまった。

それは楽しい風景と悲しい風景から出来ていたから
すぐに怒り出す母が嫌だったけれども
私は、それが嫌だとはいえない子供だった。
泣きたい気持ちを我慢するだけが精一杯だった。。
両親の仲が悪いと、子供は泣くことすら出来ない。


月曜の朝、
教室で臨時教員の女の先生が
「小学生が、学校を休んでまで、
 旅行に行く必要があるのだろうか。
 そんなことをしてはいけない」と言ったとき
「だから父が手紙で理由を説明したのに」と
私は、とてもがっかりしてしまった。



それはまさしく、
「自分との相性が悪い先生第一号」
が誕生した瞬間であり、
両親の不和で心に出来た大きな穴に
喜びや安らぎではなく
悲しみ、絶望、そして怒りが
注入されていく瞬間でもあった。


怒りは、堰をきったかのようにして
目には見えない心の空洞に
どんどんと注入されていき
休息中の火山の溶岩のように
人知れず内側でくすぶり続ける


決定的だったのが二学期に入り
運動会の練習をしていた時
何かの代表を生徒から選ぶことになり
退院直後の年老いた担任の男先生が
私の顔を見ながら、隣の組の先生に
「本人がしっかりしているだけでなくて
家庭もしっかりしている子供を出してください」
と言い放ったこと。

口惜しいけれど、唇をかむしかない。

受難の記憶の蓄積は、
全て小学4年生に凝縮されている。
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