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本・絵画の紹介

『人間失格』 

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謎その1☆人はどうしてモノを書き読むのだろうか?

太宰治の『人間失格』 
         
 この本は、今、またコンビニエンス・ストアーを中心として、若者の間で、とても売れているそうで、それはこの本が、十代のころ、思春期のころ、手にするであろう典型的な小説のひとつだからだ、と思います。


 それはどうしてなのかといえば、若者は そのむねのうちに、基本的に、孤独感というものを抱いているからです。コンビニで夜中に本を物色する、雑誌、漫画ではなくて文庫本形式の、しかも「人間失格」という題名の本を手に取ろうとするとき、この若者のとなりには、決して友人はいないだろうと思われます。



 孤独感は、自分以外の他人とは共有できません。と同時に、それは、誰にも心を奪われることがなかった美貌の青年が、ある日ふと、のぞいた湖の水面に写っていた美女に、それが自分の姿だとは気付かずに、たちまちのうちに恋してしまう、というあまりにも有名なギリシア神話のナルキッソス、ナルシスのお話にあるように、自己愛と裏腹なものであり、太宰治の「人間失格」の全編にながれているのも、この孤独感と自己愛だからです。


 しかも太宰の、自分はあきらかに他の人たちとは異なり、それは決して、誰にも理解されないだろう、見抜かれないだろうという自負心にも似た孤独感は、レヴェル的に表現すると、超一流なのです。これはナルシストな若者には、たまらない魅力なのです。


 ナルシシズムは超一流でなければならないのです。安易に他者に理解されるようでは自己愛は満足しません。なんだけれども、自分には、自分だけにはわかりやすくなければならず、小説「人間失格」で回顧的タッチで物語り的に独白されていく、私の心情は、実は、とてもわかりやすいのです。


 たとえばこういうくだりがあります・・・


[自分は怒っている人間の顔に、獅子よりも鰐よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。
ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりとした形で寝ていて、突如、尻尾でピシッと腹の虻を打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りによって暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄を覚え、この本性もまた人間の生きてゆく資格の一つなのかもしれないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。」



 「人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスをひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、しだいに完成されてゆきました。」云念・・・



 というふうに、この小説は冒頭から最後まで変わることのないトーンと知的な言葉のヴォリュームで、社会常識とのギャップ、他者とのギャップ、家族との違和感を、つまりは目には見えない、外部からは決してのぞくことのできない心象風景を、あたかも故郷の風景描写をえがくかのごとく、写真のようにして、見せてくれています。



  この小説の主人公は地方の豪農、名士の家系に生まれており、幼少のころから何不自由なく育ち、充分な教育を受けて、今でいうところの東大に進学し、東京は国会議員をしている父が都内の一等地に借りている、女中つきの一軒家で暮らし、しかも彼は女がほうって置かない美男子であり、 女と心中をはかり、自分だけ助かります。


 太宰本人がモデルといわれているこの小説の主人公は、小説のなかで、一度は死んだ身なのです。


 主人公は、小学生のころには、使用人である下男、女中に、性的虐待を受けるのですが、ひとり忍びます。そういうことは、許されることではないと思いつつも


 「そしてこれでまた一つ、人間の特質を見たという気持ちさえして、そうして力なく笑っていました。」



 そういう早熟な子供であり、ずばぬけて頭のよい早熟な子供は、大人社会の本音と建前を、笑顔のしたの本性を、いつも見抜いているのですが、誰にもそのことを告げようとはせず、そんなことがわかってしまう自分を、人からきどられまいとして、お茶目なキャラクターを演じていくうちに、どこにいっても人気者になっていきます。



 先生をもふくめて、学校中が自分のファンであり、尊敬の念さえ抱いており、自分の知性と演技力をもってすれば、雷のごとき蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴きださせることができる、と確信しているかのような主人公の前に、たったひとりだけ、そのことを見破る人物を、作者である太宰はちゃんと登場させます。このへんが太宰のすごいところであり、告白的私小説が陥りがちな陳腐さから作品を守っているといえます。



 ではそれはどのような人物なのかというと、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしかに父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上着を着て、学課は少しもできず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た竹一という生徒でした。竹一は白痴に近いのだから、やはり世のなかの常識からは逸脱した存在であり、そういう世界の住人は、なにかしらの真実をもたらします。



 体育の授業で、いつものように、計画的な失敗をして、皆の笑いをとり苦笑をうかべつつズボンの砂を払っていると、ふいに背中がつつかれて、低い声でこう囁かれます。



「ワザ、ワザ(わざとやったね)」ぎょっとしてふりむくと、声の主は竹一でした。


 彼はこの日から、竹一に自分の演技をばらされるのがこわくなり、そうされないように竹一をみはり、なんとか竹一をてなずけようと試みます。竹一はたとえるなら山下清画伯のような存在であり、あるとき竹一は、主人公の下宿で主人公に


「お化けの絵だよ」といって、ゴッホの自画像を見せます。


おかえしに、同じく印象派の画家であるモディリアニの裸婦像を見せると、竹一は


「地獄の馬だね」といい


「おれもこんなお化けの絵がかきたいよ」といいます。



 ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷めつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼らは、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいてしまったのだ、



「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を画くよ」



 竹一の言葉によって、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気がつきました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。


マイスター(巨匠)たちは、何でもないものを、主観によって美しく創造し、あるいは醜いものに嘔吐をもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現の喜びにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよってないらしいという画法のプリミチブな虎の巻を、竹一から、さずけられて、こっそり少しずつ、自画像の制作に取りかかりついには、自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上がるのでした。




 その後のストーリーで、この主人公は想像を絶するくらいにもだえ苦しむし、病気がちで経済力はなく、わびしく悲惨なのですが、それはあたかも、自らのそういう生き様を描くことによって、この「人間失格」というタイトルの小説そのものが、竹一であり、「お化けの絵」なのであり、それを差し出すことにより、読者のひとりひとりに、生きるとは、どういうことなのかを、根源から問いかけなおしているのだと思います。




人間失格 (集英社文庫)人間失格 (集英社文庫)
(1990/11)
太宰 治

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